『蝶』にまるまで『さなぎ』のなかでじっとしながら・・
『影』の自分と出会い・向き合い、自分の姿に気づき・理解し『影』もある『まるごとの自分』を愛することで『魂』を癒し『過去』に『ゆるし』をなすことで『魂』を『浄化』しながら『成長・進化』し・・
『本来の姿』の『本当の自分』である『蝶』に生まれ変わる。
ここでつかわれている『過去』は『*過去世』も含んでいるよ。
『*過去世』とは『現世』に生まれる前に生きていた『過去』の世のことを言い『魂』は新しい体をもらって何度も生まれ変わっているんだ。
〇ここに載せているすべての内容は、ぼく、サーアイアイが、自分のなかに深く入って、自分の中にある『影』を観察したことによる『体験』から得た『洞察』をもとにしているのであり、医学的根拠があるものではありません。
- 小さな『卵』からふ化して『毛虫』になり
- 『毛虫』という『幼虫』の姿で4~5度、脱皮して
- 木にのぼり『幼虫』の姿で過ごした約半分ぐらいの期間を『さなぎ』の姿で過ごし、しばらくじっとしていながら
- 『蝶』になる準備を整え、すこしづつ『さなぎ』の殻を破って『蝶』になり飛び立つ
この『蝶』の生涯を人の『魂』の『成長』となぞらえると・・
下記のように『魂』は『成長・進化』しながら『宝玉』を得ていき、すべての『宝玉』を得たとき『虹の七色の光』となって『蝶』になり飛び立つことができる。
新しい『意識(思考・感情)』に『変容』し『こころのままに』に生きられるようになる。
『さなぎ』のなかは・・
『地上』で暮らしていた『今までの毛虫の世界』から『天空』を舞い飛ぶ『自由な蝶の世界』にはいっていくための『この世』と『あの世』をつなぐ『暗闇』であり・・
『清・濁』が『グチャグチャ・ドロドロ』に混じりあっている『無意識』の『霊(精神)的)』な世界である。
それはちょうど臨終を迎えた『魂』が、これまで生きてきた『生涯』を『走馬燈』のように見せてもらい人生を振り返り『天国』に召されていくのと似ている。
こんな『さなぎ』のなかでは『宇宙』の起源から今にいたるまでの『地球』の『多種多様』な『生き物』たちの『進化』と人になってからのさまざまな『ドラマ』のなかで生きた『ありよう』や『意識(思考・感情)』が息づいていることに気づくようになり・・
『花や草木』『虫や動物』の気持ちやさまざまな人たちのさまざまな気持ちもなんとなくわかるようになり、そこに『思いやり』をもつことで・・
みんな『尊い命』をもつ地球の『メンバー』であり『家族』なんだということに気づくようになる。
そして・・
『生命』の『源の愛』である『神様の愛』にたどりつくことができるようになる。
こんな『さなぎ』のなかで成し遂げることは、どんな自分もゆるし愛することで『本来の姿』の自分に生まれ変わることにある。
『本当の自分』を生きることを許されず、苦しんでいたり泣いていたりする『内なる傷ついた子ども』つまりは、自分の『影』と出会い・・
『影』と激しい『バトル』を繰り返し追い詰められて、否が応でも『影』と向き合い『影』の気持ちを『理解』せずにはいられないところまできてはじめて・・
『影』を認め・許し、折り合いをつけて・受け容れることで『影』もある『まるごとの自分』を愛することができるようになり『魂』は癒され『過去』に『ゆるし』をなすことで『魂』は『浄化』され『成長・進化』を遂げることができる。
こうして・・
ぼく、サーアイアイは、こんな『さなぎ』のなかに自分ではまったく意図せずはいってしまい、後々『さなぎ』のなかでの経験が『魂の暗夜』といわれるものであることに気づくことになるんだ。
『さなぎ』になる前の地上で暮らしていた『毛虫』の姿が自分の『影』ということになり『蝶』は『本来の姿』の自分ということになるんだけど・・
ここから自分の『影』と出会っていくことになったんだ。
『さなぎ』のなかにはいってしまった最初のころは、自分が自分でなくなっていってしまうことに、ただただ驚くばかりでなにが起きているのかさっぱりわからず『得たいのしれない恐怖』におののき『混乱』するばかりだったよ。
そうして・・
『過去』からひきづっている『コントロールの世界』による愛の『ドラマ』を『意識』のなかで繰り返し・繰り返し・繰り返し『体験』させられることになり・・
『コントロールの世界』で植えつけられた・・
などの『思考』が、ぼくを呪縛し苦しめるようになっていったんだ。
これらの『思考』は自然な『ありよう』や『ふるまい』を『干渉・監視』しては『抑圧・禁止』し・・
人の『ありよう』や『ふるまい』に『批判』『批難』『嫌悪』『不満』『不信』『不安』『心配』や『怒り』『悲しみ』『憎しみ』『恨み』、または自分でも気づけないような『嫉み』や『妬み』などの『感情』をわきあがらせ・・
自分も人も責めたり、または『ウソ』をついたりして『偽りの愛』のために、ただ盲目的に『コントロール』の『きつい坂道』を登るしかないと思い込んでいる『ドラマ』をイヤと言うほど『体験』させられることになったんだ。
こんな『さなぎ』のなかは、糞尿、漂う棺桶のようであり、一度閉じ込められたら抜けだすことができない『暗闇』なんだ。
そこで、次から次へと『過去』の怖ろしい『幻想(ドラマ)』に見舞われながら・・
自分でも信じられないほどのおぞましい『ネガティブ』な『思考』が『あたま』のなかで『グルグル』し・・
その『思考』によって『ネガティブ』な『感情』が『はら(腹・胆)』の底からわきあがってきては『こころ』は『イライラ』『モヤモヤ』し・・
『からだ』は重く、あちこちの『不調』と『痛み』に『苦しむ』ことになったんだ。
特に『おなか』の調子はいつもスッキリせず、今まで感じたこともないような重苦しさがあり、あたかも『腸内細菌』の『悪玉菌』たちが暴れているような感じだったよ。
こんな心身の不調と『ネガティブ』な『思考』と『感情』による『意識(思考・感情』によって『あたま』も『こころ』も『からだ』もどんより重く『モヤモヤ』しながら、来る日も来る日も人や自分を責めて責めて責めまくり・・
自分のなかにある『善・悪』『清・濁』『聖・俗』『本能・理性』『獣・人間』など、両極にいる『真逆な自分』との激しい『葛藤』を繰り返し・・
身を引き裂かれるような『苦しみ』となんとも言えない『気持ちの悪さ』に『精神』と『神経』と『肉体』が分裂しているような『体験』をさせられていたよ。
こんな『地獄』のような混沌とした日々のなかでなんとか『正気』を保つためには、自分がどんな状態にあるのかを『観察』し『認知』するしかなかったんだ。
でも・・
『闇』にひきずりこまれ『無意識』に操られていることを『認知』できていたおかげで『本当の自分』とかけ離れた姿のままになってしまうことを免れることができたんだ。
『過去』のさまざまな『ドラマ』のなかで、さまざまなことを考え・信じ・誓い、さまざまな『ありよう』になりながら、さまざまな『感情』がわきあがっていた『内なる傷ついた子ども』=『影』と出会うたびに・・
抑えがたい『怒り』や『悲しみ』や『憎しみ』や『恨み』があふれだし『影』との激しい『バトル』が始まってしまったんだ。
ときには必死になって『影』から逃げることもあったけど『影』はひつように追いかけつきまとい、心身はいつでも『疲弊(おそろしく疲れ)』し『ヘトヘト』だったよ。
こうして・・
さまざまな『ドラマ』を垣間見せられるたびに、激しい『感情』に打ち震えながら『ドラマ』の奥に潜んでいた『真実』も知るようになり、どんなに辛くひどい『ドラマ』であったとしても、その奥にはなにかしらの『悲しい物語』が潜んでいて・・
誰も何も悪くなくそんなふうになるしかなかったことや若気の至りや経験不足のために『失敗』や『過ち』を犯してしまったことやせっぱつまった状態であったため『誤った』ことをしてしまったことや・・
なんとか『愛』がほしくて歪んだ生き方になってしまったことなど・・
それぞれの『ありよう』でさまざまなことを経験しながら『一生懸命』生き『魂』の『成長』にとって必要な『愛』を学んできていたことがわかるようになったんだ。
そうやって、さまざまな『ドラマ』に『理解』という『光』をあて、さまざまな『ありよう』になっていた存在たちに『思いやり』という『愛』を注ぐことができたとき・・
そんな存在たちがいる『影』の自分を愛することができ『魂』は癒され、どの『過去』にも『感謝』して『ゆるし』がなされることで『魂』は『浄化』され『成長・進化』して『本来の姿』の『本当の自分』に生まれ変わり『蝶』になれることを悟っていったんだ。
こんな『魂』の成長を『蝶』の生涯と山登りの『旅』に照らしあわせてみると・・
『毛虫』の姿で地上のさまざまなことを経験しながら、上を見て頂上をめざす
さまざまな『時代』のさまざまな『権力』の『支配』による『社会』の『ルール』や『教え』により『本来の本能』を歪まされ『コントロール』の世界のなかで『生存(子孫繁栄も含む)』と『防衛』ために身につけた『知恵』により『偽りの愛』を生き『きつい坂道』を登りながらも・・
『立派な人』や『成功者』になろうとして『知性』や『理性』や『技能』を磨きながら『筋力』をつけ、神様に近い存在になろうと『品性』を磨く。
けれど・・
その一方で『無意識』のうちに、自分や人の『至らなさ(不得手)』や『弱さ(弱点)』や『欠け(短所)』を責めたり怒ったりして『品性』を落としていることにも気づかずにいる。
『さなぎ』になる準備を始める前に山の頂上にたどり着いたことによる『歓喜』を味わう
『立派な人』や『成功者』になろうとさまざまな経験をしながら山の頂上にたどりついた『魂』は「お疲れ様でした」とねぎらいの言葉が告げられ、今までの苦労も吹き飛んでしまうほどの地上では見ることができない『素晴らしい景色』を眺め『歓喜』を味わう。
『さなぎ』のなかでしばらくじっとしていながら今までの『生涯』をたどり『蝶』になるための準備をする
それぞれの『魂』はそれぞれの『ルート』で違った経験をしながら山の頂上をめざし『歓喜』を味わったあと、自分が『たどった道』を降りていくことになる。
その『過程』で自分や人がしてきた『失敗』や『過ち』を振り返り、そんな経験をしてきたからこそ『魂』は『学び』を得ることができたことに気づき・・
誰もが、なにかしらの『愚かさ』や『弱さ』や『もろさ』をもっていながらもそんな『マイナス面』を認め、許し、受けいれ・・
克服したり上手に生かすことで『折り合い』をつけることができると、そこに『価値』を見いだすことができ『魂』は強くも賢くもしなやかにもなりながら『成長・進化』し続けていくことに気づくようになる。
この『折り合い』をつけるというのは『抑圧・禁止』していることをほどよくほどき『表』にだしてあげることで『自分らしさ』が輝くようにしてあげるということになる。
このような『気づき』を得ながらも、山を降りるときは登るときよりはるかに厳しい『試練』に見舞われることになり・・
山を登るときに『傷』を負った場所に近づくと辛い『過去』がよみがえり『古傷』が痛みだし『恐怖』や『怒り』や『悲しみ』などが、ど~っとわきでてきて『平常・平静』を失ってしまい・・
慎重にしなければ、また同じような『災難』や『失敗』や『過ち』を繰り返してしまう『危険』をはらんでいるため、その『恐怖』と『緊張』は測り知れないものとなり・・
万が一、足を滑らせてしまったら、傷ついた『からだ』のまま、また一からふりだしにもどり山を登らなくてはならなくなる。
そんな『さなぎ』のなかで『毛虫』だった頃の自分をよく『観察』し多くの『気づき』を得て『理解』を深めていくことになる。
多くの『気づき』として、以下のようなものがあり・・
- 人から受けた『痛み』による『怒り』や『憎しみ』や『恨み』、自分の『未熟さ』や『無知』がまねいた『失敗』や『過ち』が『こころの傷』となり『こころ』に重く残る『しこり』や『石』となって、いつまでも自分や人を責める『元(もと)』になっていることに気づかされたり
- 人はひょんなすきに『魔』がさし目を眩(くら)まされてしまうと、目には見えないものに操られ『悪』や『闇』にひきずりこまれ、自分の意思では歯止めがきかなくなる『危うさ』や『弱さ』や『もろさ』をはらんでいることに気づかされり
- 『なぐさめ』や『快感』や『快楽』を不健全なかたちで味わった『甘味』は束の間の『癒やし』をあたえてくれるものの長続きはせず、むしろ、その後にたいせつなものを失ってしまった『喪失』と『後悔』の方が重くのしかかり『苦(にが)味』と『空虚=むなしさ』が残ってしまうことに気づかされたり
- 不本意な『わき道』を歩かなくてはならなかったとしても、そこで見た景色や経験が視野を広め『気づき』や『学び』をあたえてくれて『本当の自分』を生きるための『糧』となり、後の人生に必要な『知力』や『筋力』をつけてくれたことに気づかされたり
- 「なぜあのとき、あんな自分になってしまったのか?」と思えるようなどんなことでも実際に経験した者でなければわからないことばかりで、たとえその経験が『失敗』や『過ち』であったとしても『魂』は成長のためにその経験が必要だったのであり、それを克服し乗り越えた者でしかわからない『真実』があることに気づかされたり
- 『闇』や『裏』や『影』の世界を知ったからこそ『光』の世界がどんなものであるかがより明確になり『闇』や『裏』や『影』の世界をくぐり抜け『光』にたどりついたからこそ『影』も『光』もあるこの世の『真実』に気づかされたり
- 社会の『ルール』や『教え』による『思い込み』や『決めつけ』をしている自分が『無意識』のなかで『偏見』や『差別』や『疑い』を人にも自分にもしていることに気づかされたり
- 『コントロール』の世界でなんとか生き延びるために『権力』や『力』のある者にとっての『いい人・いい子』になろうする『知恵』や『生き方』が『共依存的な愛』を繰り返すことになり『こころのまま』に『自由』に生きるための『重荷』や『足かせ』となっていて、それらをひとつひとつ手放すことができなければ『自立』するこができないことに気づかされたり・・
ほかにも・・
山を降りる『旅』のなかで出会う山を登ってきている人たちの姿を眺めることで『過去』の自分の『ありよう』をより深く『理解』できるようになるんだ。
では・・
ここからは、ぼくが『さなぎ』のなかで味わった『苦悩』と『悟ったこと』をお話しするね。
『さなぎ』のなかでは『過去』の怖ろしい『幻想(ドラマ)』に見舞われてしまうため『こころの傷』からわきあがる『怒り』や『悲しみ』や『憎しみ』や『恨み』などがあふれでてきて・・
心身の『不調』と『痛み』に苦しんでしまうため『影』と向き合うどころではなく闘うか逃げるかに必死になってしまうんだ。
それでも『あたま(思考)』のレベルではなんとか『影』と向き合おうと努力するものの・・
激しい『混乱』と『葛藤』と荒れ狂う『感情』のなかで『影』と向き合うことは『至難の業』になってしまうんだ。
こんななか『汚れた思考と感情』をもっている自分を愚かで卑しいとおとしめ責めて責めて叱りつけ『自己否定』と『自己卑下』も繰り返すようになり・・
こうして自分に『×(バツ)』をつけてしまうと自分を傷つけ、心身はもっと激しい『痛み』に見舞われ『ジタバタ』すればするほど『苦しみ』は増し『負のスパイラル』にはまりこんでしまうんだ。
また・・
わきあがる『感情』を鎮めようとすればするほど『火に油を注ぐ』ようなことになり、どす黒い『感情の炎』が『メラメラ』と燃えあがるのをなんとか一時的に『意思』の力で弱めたとしても・・
わきでた『炎』は消えることはなく、またなにかが『きっかけ』になってよみがえってしまうと『感情』は『メラメラ』と燃えあがってしまうことに気づかされたんだ。
おまけに、ぼくは『ネガティブ』な『感情』を吐き出すことは『魂』を汚すことになると、ずっと思いこんできたから『ネガティブ』な『感情』を吐き出すことにものすごい『抵抗』があったんだ。
けれど、そんなこと言っていられないぐらい『おぞましい感情』があふれでて抑えることができなかったから・・
人の迷惑にならないようにどうやって吐き出したらいいのか『苦悶』しながらも自分なりのやり方で『ネガティブ』な『感情』の『やり場』をあれこれ試し、少しづつ吐き出していけるようになったんだ。
そうしているうちに『感情』には『ニオイ』があり、なかでも『泥水』や『糞尿』のような『ニオイ』は『動物』として生きていく『性』と関わりがあることがわかるようになり・・
さまざまな『感情』の『ニオイ』がぼくにとっては『毒』のように『からだ』に障り『病気』になる一歩手前の『未病』とさまざまな『アレルギー』に見舞われるようになり『病は気から』ということをとことん味わうことになったんだ。
『聖』『清』『天』を目指して山を登ってきたのに、山を降りるときには、自分が最も忌み嫌っている『俗』『濁』『下』なる『影』の自分と出会うことになり・・
こんな『真逆な自分』との激しい『葛藤』のなかで激しい『感情』が荒れ狂う『バトル』を十数年、繰り返しているうちに思い知らされたのは・・
『あたま(思考)』のレベルで『影』を『ゆるす』ことができたとしても『こころ(感情)』のレベルで『影』を『ゆるす』ためには『地獄』を見なければならないということだったよ。
例えば・・
純粋なおもいで助けた人から自分のたいせつな人を傷つけら『恩を仇で返す』ような仕打ちにあったとき、果たしてその『罪人』を『赦す(ゆるす)』ことができるだろうか?
正義感が強く清く生きることを自分の信条にしていたり、この世を平和で美しい世界にしようとするやさしい気持ちが強ければ強いほど『ネガティブ』な『感情』を鎮めることは難しく・・
『罪』を罰して人を罰せず『赦す(ゆるす)』ことができれば、人を憎み恨む『苦しみ』から解放され、どれほど『楽に』なれるか、また『憎しみ』や『恨み』からは『憎しみ』や『恨み』の連鎖しか生まないことも『あたま』でいやというほどわかっていたとしても・・
『あたま』と『こころ』を切り離し割りきるのは身を裂くほどの『痛み』と『苦しみ』を味わうことになることや人の『性(さが)』がなせる『情(じょう)』が人の人生に及ぼす『業(ごう)』の『深さ』をよくよく知ることになったんだ。
『さなぎ』のなかにはいった最初のころは『影』と激しい『バトル』を繰り返しながらも「自分の力で『殻』をぶち破り、なんとかここからぬけだしてやる~」と息巻き・・
何年もの間、闘い続けてきたけれど、このまま『影』と向き合うことから逃げていてもなにも変わらず、さらに『心身』が病んでいってしまうことに気づいてからすこしづつ『影』と向き合い『理解』することができるようになっていったんだ。
とはいえ・・
『あたま』のなかはずっと『モヤモヤ』していて『霧』や『靄』のなかを当てもなくさまよっている感じは、この世の『現実』を生きている実感をもてず・・
『あたま』も『こころ』も『からだ』も本当にキツく、この『辛さ』をどうしてあげたらいいのかもわからず何年も耐え続けていたよ。
でも・・
とうとう『精も根もつき果て』どうにもならなくなって、やっとのこと「『泥水』で『も『糞尿』でも呑(の)んでやる~」つまり『清濁併せ呑む』ことに『観念(あきらめる)』ことができるようになったとき・・
やっと、自分のなかにいるさまざまな『影』の存在を受け容れる度量ができ『影』と統合する準備ができあがり・・
自分の『こころ』にウソをつかず神様に身をまかせじっとしていればそのうち『殻』から抜けだせるようになるのだろうという『境地』に達することができたんだ。
これにより、神様の『ご意思』にしたがって生きていく、つまりは『こころのままに』生きていく『覚悟』ができたことで『自我』は自然とつながり『自然(神様)』と手をつなぐことができ・・
神様と近い『感性』と『情緒』を得て、神様と共に『創造』する世界に入っていく準備が整っていくことを悟ったんだ。
ここまでくるのに十数年という歳月がかかってしまったけれど・・
とにかく『魂』を腐らせずにいることだけは肝に銘じていて「夜明け前が一番暗い、けれど明けない夜はなく、明ければ光り輝く朝が来る!!」ということを『希望』にして「神様と共にワクワクしながら生きる!!」という『夢』を持ち続け・・
日々のなかでなんとか『楽しい』ことを見つけだし、自分なりの『自然な生き方』をして『自然の力』(自然の香りや色の力)に助けてもらいながら、じっと耐えているうちに『膿(うみ)』がでてきてすこしづつ『傷』がふさがり『魂』は癒されるようになっていったんだ。
こうして・・
『汚れたもの』をさんざん呑んだ『魂』は、むしろ『想念』がきれいになり『浄化』され、今まで自分を苦しめてきた重い『しこり』や『石』はすこしづつなくなり『過去』の呪縛から解き放たれた『魂』は軽く清らかになっていったんだ。
この『過程』で『情(じょう)』を『情(なさ)け』に昇華していくことで『さなぎ』の『殻』をぶち破る『力』と『愛』と『叡智』を得て、今までとはまるで違う『新しい意識(思考・感情)』に変容することで『本来の姿』の『本当の自分』に生まれ変わり『蝶』になれることを悟ったんだ。
きっと・・
自然界の『さなぎ』も、これから自分はどんなふうになっていくのだろうという『不安な気持ち』をかかえながら、どんなに気持ちが悪くても『神様の愛』を信じきり神様に身をまかせるしかなく、じっとしていることで『蝶』になっていくのだろうと感じていたよ。
また・・
『蝶』になる『プロセス』は蓮が『花』を咲かせることと似ているとも感じていたよ。
『闇』のなかの『泥水』でさえも『滋養』に変え『無条件・無償の愛』ですべてのものを愛することができたとき『神様の愛』をこころから信頼することができ『光』に向かっていくことで清らかな花を咲かせることができる・・
つまり『無為自然』にあれば『蝶』になれるということを悟ったんだ。
この『無為自然』とは、なんら作為をせず、あるがままの状態をいい、植物や虫や動物が自然の恩恵を受けている。それだけで、なにかをしようとわざわざ考えずとも、天地はすべてのことを為している・・ということなんだ。
また・・
この『プロセス』は『守破離』とも通じるものがあり・・
『毛虫』の姿で地上を生きていくために必要だったことが『蝶』になって空を羽ばたくときには、むしろ邪魔になり、仏教の言葉でいう『解脱(げだつ)』という感じで、この世の『苦悩』や『囚われ』から『自由』になるって感じなんだ。
無理して何かをしようとしたり、何者かになろうとしなくても『ありのままの姿』で『こころのままに』生きていれば、神様から『授けられた仕事』に『ワクワク』することができ『夢』や『希望』がかなえられ『蝶』となって羽ばたくことができるということなんだ。
つまり・・
『立派な人』になろうとか『成功者』になろうとして山を登ることが『しあわせ』であると思い込まされてきた地上での『生き方』より・・
『弱い自分』も『ダメダメな自分』も認め受け容れ、自分に『思いやり』をもって『やさしく』なることで自分をたいせつに愛し・・
自分らしい『よろこび』や『安らぎ』に満ちた日々の一瞬・一瞬をたいせつに『こころのままに』生きることの方が尊く、これこそが『しあわせ』な姿なのであり・・
こんな姿を見ているまわりの人たちもまた『こころのままに』生きていきたいと思うようになることで『新しい意識(思考・感情)』に変容することができると・・
ただ、生きているだけでこの世に『奉仕』していることになり『徳』を積んでいることにもなるんだ。
その姿は、空気、太陽の光、雨、土の栄養を『無条件・無償の愛』としていただきながら、自分の『命』を誇らしく嬉々として輝かせ、ほかの命とつながりのなかで生かされている『自然に還る』ことになるんだ。
そして・・
これが『新しい世界』で生きるための『進化』となっていくんだ。
『蝶』になるまでのあいだ『さなぎ』のなかでじっとしているしかなかったのは、こんな『難題』にひとりじっくり取り組むために用意されたものであり・・
危険や誘惑であふれている『外の世界』から、むしろ守られながら静かに『影』の自分と向きあい『本当の自分』に『目覚め』ていくために必要な『プロセス』だったんだ。